都市・マイノリティ・犯罪

 クエンティン・タランティーノが『ジャッキー・ブラウン』を撮ったとき、ふつうにいわれたのは、二重の意味での七十年代的事象の復活だった。一つは、一九七〇年代中期ブラックスプロイテーション映画のクイーン、パム・グリアの復活。もう一つはメイン・テーマ曲として使われるボビー・ウーマックの『110番街交差点』――もちろん一九七〇年代前期ブラック・ギャング・ムーヴィの傑作のタイトル・ロールだ――の復活だ。

 と、いちおうはいっておけるが、これらは必ずしも単純な意味での復活などとは決められないだろう。

 パム・グリアの場合は、少し前に公開された『ホットシティ』のほうが、その役柄としても作品のメッセージ性としても、はるかに復活、それも敗者復活というにふさわしいものがあった。そしてまた。

 そして、『110番街交差点』のテーマ・ソングの「発見」にしても、九〇年代ハリウッドのシンデレラ・ボーイ、タランティーノの非凡な商業的嗅覚を証明してはいるが、かれの才能についての他の何を証明しているわけでもない。

 『110番街交差点』は、ウォリー・フェリスの原作にしても、バリー・シャーの映画にしても、ウーマックのテーマ曲にしても、ブラック&ホワイトだんだら模様の対決感が先鋭に、あまりに鮮烈に図式化されていたことを、思い出さないわけにはいかない。映画のラストシーンは、狙撃されて倒れる白人刑事アンソニー・クインが黒人刑事ヤッフェ・コットーに手をさしのべる、その黒と白との手がついに握手されずに終わる無念を映しとって余りあった。

 「アクロス・110ストリート」の路上には、すべてが交差している、とウーマックの歌は歌っている。そこでは、ヒモ野郎が弱みをみせる女を狙っているし、女たちはひっかけるネタを捜しまわっている。ストリートが交差するところが境界だ。シロとクロとは金輪際、握手なんかできない。

 このように、ハーレムを舞台としたクライム映画は、七〇年代ブラック・ギャング・ムーヴィの流れにあっても、異色の「混血」を色濃く残していた。制作者であり、主演を兼ねたアンソニー・クインの意向も反映しているだろうこの映画は、内実は九〇年代ブラック・シネマの質を先取りし、ブラック・ゲッ

トーの犯罪の背景に、白人刑事と白人マフィアとの抗争を入り組ませることでストーリーを構成している。

 こうした限定的な意味でいえば、『110番街交差点』は、マーティン・スコセッシが買い取ってフィルム化する意図だった作品を、スコセッシ製作でスパイク・リーが監督した『クロッカーズ』に、奇妙に質感が似ている。

 リーは自分が演出するにあたって、主役の白人刑事コンビを徹底して脇役に押しのけ(その結果、ハーヴェイ・カイテルはともかく、相棒役のジョン・タトゥーロからはほとんどセリフが削られてしまった)、混血の歪んだブラック・シネマをつくった。

 もっともこれを、『ドゥ・ザ・ライト・シング』以来、

テーマの深化に混迷をみせているスパイク・リーの可能性とみなすこともできるだろうが。

 『110番街交差点』では、反目する二人組刑事のチームという、ハリウッド映画での伝統あるパターンが守られつつ、それが、白人たたきあげ鬼刑事と若い黒人の理想肌の刑事とに振り分けられている。かれらの所轄内で現金強奪事件が起こる。黒人三人組がブラック・マフィアの縄張りの賭場を荒らしたのだ。事件の解決をめぐって、上部組織である白人マフィアとその傘下の黒人ギャング、そして警察との三つ巴の抗争が燃えあがる。

 ハーレムにひそんだ襲撃犯はかりたてられ一人ひとり殲滅されていくが、この過程で白人刑事も白人マフィアの跡取り(アンソニー・フランシオーサ)も敗退していく。ハ

ーレムのギャングと癒着した汚さをさんざん見せつける初老の刑事をクインが圧倒的に演じて、さきに書いた絶望的なラストシーンにつながる。

 芽生えかけた友情(たぶんにハリウッド映画的な紋切り型の友情ではあるが)は、摘み取られて終わる。黒と白との手が握られるさまは描かれないのだ。


 パム・グリアは、『黒いジャガー』に始まり、『110番街交差点』やチェスター・ハイムズ原作の『ロールスロイスに銀の銃』などを含むブラック・アクション映画流行の後を継ぐスターだった。それもブラックスプロイテーションと蔑称される暴力とエロを売り物とする路線だ。





映画史の棚に収められ、今日では、ブラック・ギャング・ムーヴィよりももっと、黒人の尊厳を貶るものとされるだろう。とくにブラック・フェミニズムの立場からすれば、黒人女のエキゾティックなヌードを商業ベースに売り渡した傾向は、ブラック・マッチョ主義以上に告発の対象だったにちがいない。

 パム・グリアの復活にさいして、こうしたマイナス面の一切が捨象されていたことはいうまでもないだろう。ブラックスプロイテーション・クイーンの像はたとえようもなく美化された。現在、黒人の映画観客人口比は二十五パーセント(黒人人口は十二パーセント)だから、黒人は非黒人の倍は映画を観るという計算になるだろう。

 黒人映画観客人口の比率をよく知っているタランティーノ

は、自分が悪ガキのころから「肌の色以外は黒人」として生きてきたと宣伝するのを忘れない。その証拠にパム・グリアのヌードを観てセンズリをかいていたと広言するわけだ。ブラックスプロイテーションは、都市部の不良少年たちの反抗気分を、このようにして保証しえていたのだろうか。

 ――こうした問いかけは、これらの映画がまったく日本には輸入されていなかったので、答えを推定してみるほかないのである。

 そして『ジャッキー・ブラウン』公開に先立って、タランティーノ推薦印をつけて、それらの何本かが輸入公開され、あとにビデオも発売された。わたしの観得たのは『コフィ』と『スウィッチ・ブレード・シスターズ』の二本のみだが、たしかにパム・グリア主演の『コフィ』には、そのあまりの低予算と御都合主義の筋立ては差し引いても、グラマラス・ボディだけではない女優のオーラがわきたっていたことが確認できる。

 そしてそこには、日本映画に置き換えてみれば、梶芽衣子の『女囚さそりシリーズ』に集約されるような、テルミドールの季節にくすぶり続ける反抗気分と権力への怨念の残滓が見間違えようもなく刻印されているのだった。――ここで話はまた、不正確にノスタルジックな方向に少し逸れざるをえない。

 『スウィッチ・ブレード・シスターズ』は、黒人はまったく出てこないティーンエイジ・ギャングものだが、これを観ていて、不思議に思ったのは、同時代の日本の東映スケ番もの映画とのほとんど瓜二つに見える同質性だった。安っぽさ、形どおりのヒロイズム、良識の本質的な欠如、虚しさからたちのぼるある種の切実さ、など発信されてくるものが、まぎれもないシンクロニシティだったのだ。

 七〇年代の中半、日本映画はまだまだ勢いをもっていて、東映なら東映の路線はA級プラスB級の二本立て興行を行なっていた。Aはたいていやくざ映画、Bは俳優が格落ちするやくざ映画、ポルノ、スケ番もののうちどれかだった。

 わたしはだいたい全部観ていたが、タランティーノが日本の暴力映画から養分を吸収していたというのは有名な話だから、かれがそれ以外のB級番組もたくさん観ていて不思議はないし、かれの推薦するフィルムにそれらと同一のテイストが備わっているのは当然なのかもしれない。

 池玲子とか杉本美樹とか、かつての東映スケ番スターの復活があるのかないのか知らないが、その時代と己れのノスタルジアをこすり合わせるような感性は牢固としてあり

つづけるはずだ。日米文化の輸出品としてあまり上等とはみなされないだろうプログラム・ピクチャーの一群が同一の反抗的気分を発信していたという事実は興味ある問題だ。

 (性格は異なるが、かなり長きにわたって日本映画の輸入を禁じてきた韓国にあって、日本ものによく似た仁侠やくざ映画が大量生産されていたという事実も面白い)。

 千葉真一が主演する空手映画が、黒人観客に人気を博し、「ソニー千葉」が一部のアメリカではスーパースターだったという事実は知っていた。千葉や女ドラゴン役者の志穂美悦子やあるいは若いころの真田広之を擁した東映カンフー映画は、明らかに同時期の香港製カンフー


映画の主流とは一線を画した、怨念と反抗心を秘めていた。そうした日本的アウトロー・スタイルが、アメリカのアーバン・シティの下層コミュニティという異文化に、どういった共振を持って受容されたかを、今、正確に計測することは不可能に近いだろう。

 ただここでは、タランティーノという特殊なそしてかなりビッグマウスに事態を粉飾したがる個別の例をもとに、サンプリングし想像的に復元してみるほかないようだ。

 問題を、B級映画の「不良性」とか「アウトロー性」とかいうふうに還元してしまうと、まったく何もわからなくなってしまうと思える。すべて商業ベースで解釈され尽くすだろうし、またそのように回収され尽くすだろう。B級映画というカテゴリーすらも、単純に日本的市場の限定性において考えるべきではあっても、すでに「五十五年体制」下における歴史概念に帰着しているのではないだろうか。

 だからこそ、ブラック・ムーヴィの長くない歴史のなかから、オナニー・クイーン、パム・グリアとボビー・ウーマックのヒット曲のみをチョイスしてくるタランティーノの感性がもてはやされる、といえるのだ。ノーマン・メイラーのむかしから「ホワイト・ニグロ」という殺し文句は、内面の変革を商業的成功へと弁証法的発展させるみちすじをつくってきたが、われわれは、今またその九〇年代版を目の当りにしているわけだ。

 ではその身振りははたして成功しているのか。

 面倒な議論はやめよう。二つの方向からだけ考えてみる。『ジャッキー・ブラウン』はほんとうにパム・グリアの復活作になったのか。そしてクエンティン・タランティーノの最新作として、大方の期待に答えるものであったか。設問を二つ並べるとして、その答えはどちらも否だ。『ジャッキー・ブラウン』はそのどちらの要件もみたしていない。もちろんよく出来ているところはあるにしても、贅沢にこしらえられたホーム・ムーヴィ以上の感動がこの作品にはあるだろうか。答えは否である。

 まずタランティーノ自身の作品として、進化だったのかどうかの問題。わたしの主観でいえば、『レザボア・ドッグス』も『パルプ・フィクション』もチープな作品にすぎなかったことを思えば、今回はまだゆったりとした鑑賞にたえる作品だったという気はする。しかし「作家の顔」の進歩として観た場合に、これは、何か過去の業績に付け加えているだろうか? もちろん一作ごとに成果を示しえない創作者を一義に指弾するといった性急さで、ことを片付けても仕方がない。後退だの停滞だの粗さがしをするつもりはまったくない。極端にいえば、これが失敗作であっても、次の何かの模索が少しでもあれば許容できるということだ。



 しかし『ジャッキー・ブラウン』は、まず原作の選択で安易な方向に逸れていったと思える。とはいっても原作『ラム・パンチ』はエルモア・レナード作品のなかで最悪のレベルに属するものではない。気になることは別にある。ここでは、クライム・ノヴェルの妙味――ようするに人がレナード作品に求める並みの期待だ――よりも、人物の心情の観察に重みが与えられている。犯罪によってピンポン玉が打たれる様を見せるよりも、玉を受け取った人物、打ちかえす人物の表情に、作者の興味が移っている。アクションよりも、コン・ゲームよりも、人情劇だ。前作の『ゲット・ショーティ』(これも映画化されている)などは、債権取立屋がいっぱいくわされた話をしていると、相手はそれを新作映画の筋書きと勘違いして大金をはたいて買い取ろうといいだす。そ

んなところから転がっていくコン・ゲームのドライヴ感が、なんともいえずおかしかった。人物たちは互いに相手を出し抜こうと必死だから、自分たちの人生の足元などは見つめない。見つめる余裕なんかない。

 ところが『ラム・パンチ』の人物たちが主要にやることといえば、己れの越し方を振り返ることばかりなのだ。話の眼目も、現金運搬人が荷物をすりかえて現金をくすねとる、というだけの単純なもの。ウラをかいたらオモテのウラのまたウラがあって、とかいう意外な展開は用意されていない。ウラは一回かけば終わり。さして頭も使わないような計略で大金をふところにし、引っかかる一方のやつが間抜けにみえて仕方のないプロットだ。プロットの熟成に欠け、代わりにあるのが、中年のアウトローの敗者復活戦というわかりやすい人情のドラマなのだ。どちらに力点があろうと、あとは好みの問題でもある。これもまたレナード・タッチといって差し支えないだろうが、これのみをレナード節と呼ぶのは、やはり勘違いではあるまいか。

 『ジャッキー・ブラウン』は、敗者復活戦をともに闘う中年スチュワーデスの役を、黒人のヒロインに置き換えただけで、プロットは原作をほぼ忠実にたどり、この人情ドラマを前面に押し出した。パム・グリアと『110番街交差点』の曲がアクロスするシーン――勝ち残った彼女がカーステレオから流れるウーマックの歌声にシャウトするクローズ・ショット――はラストに置かれていて、さすがにここは感動ものである。はたしてここまでは単なるフロクにすぎなかったのかと粛然とするほどに感動する。言葉を変えれば、ここにいたるまでのヒロインの位置が、つまりヒロインに捧げる作者のオマージュの定点が、いっこうに決まっていなかったのだ。ラストに近いショットになって初めてやっと、おお、これはパム一人だけのために捧げられた、あとは何にもいらないという贅沢きわまりないプライヴェート・フィルムだったのかと納得するのだ。それまでは納得しかねていたのである。

 暴力を排した「大人の映画」とか好意的な受け入れられ方もしただろう。そうした鑑賞にとくに反対するいわれもない。肝心なことは、映画の多くのシーンでヒロインの存在が居心地悪く浮いてしまっていたということだ。しかしながら、レナード原作の映画で成功したものが少ないというのも定説であるし、レナードを崇拝するタランティーノが、この映画によってようやくレナード・タッチをフィルムに移し代えることに「初めて」成功したという説も、むやみには退けられない。レナードの会話のファジーさを映画に収めることにタランティーノはさほど苦労していない。それはもともと、タランティーノのシナリオ作法にレナードからの影響が強いのだから、さして驚くこともないだろう。レナードがペン一本で描いてみせる「外れ者の世界」によって、タランティーノのクライム映画の外枠ができあがってきたのだから、である。けれども、そうであるほどいっそうパム・グリアの存在が物語から浮いてしまうのだ。それはとりもなおさず、ブラックスプロイテーション・クイーンの肖像が、レナードが、またタランティーノが得意とするアウトロー世界には収まりきらないことを告げている。
 ではないのか。
 彼女は、もっと陰影がなく、下品で、直截的で、暴力的なエロスを発するだけの存在だったのだ。アフロ・ヘアに両刃のカミソリをしのばせて女同士の決闘にのぞむコフィ、妹を廃人にした麻薬組織に一人立ち向かってショットガンをぶっぱなすコフィ、銃を持った黒いオナペット……。









 コフィほど、レナードのクライム・ストーリーに似合わない存在はいないのだ。
 パム・グリアは十年前に、スティーヴン・セガールの『刑事ニコ 法の死角』に準主演級で出ている。良心派アクションスター、セガール刑事の相棒役で、セリフは少ないがけっこう目立つ役柄だった。かつてのBSクイーンからの転身を印象づけるが、後続する作品がない。その後、癌で余命一年半を宣告されたとかいう話も書かれているが、『ジャッキー・ブラウン』公開にさいして発表された経歴(おもに雑誌の記事だが)はどうも不正確に思えるので困る。
 こちらも正確に調べはつかないのだが、次の出演作は『ホットシティ』(九六年製作、劇場未公開、九七年一月ビデオ発売、原タイトル『オリジナル・ギャングスター』――なんとアイス‐Tの第四アルバムと同じ題だ)になる。これはまさに真の敗者復活戦を愚直なほどに描いた作品だ。ブラック・ムーヴィの短い歴史が、黒い暴力と黒いセックスをそれ自体としてのみ「黒い仮面」として商品化させられるという屈辱を含みながらも、九十年代の黒人自身による表現として全面開花してきた過程に必然的に(?)生まれた不可思議な作品である。早い話が人物を黒人に置き換えただけの典型的な「現代やくざ映画」なのだが、不可思議というのは、ストーリーそのものが黒人映画の総体にたいして非常に自己言及的な構造を持っているからである。自己言及的というのは、かつてのブラック・アクション時代のスターたちがおよそ四半世紀ぶりに一同に会して出演しているからである。しかもかれらの役柄は、二十年ぶりに戻ってきた故郷で悪辣な稼業を営むギャングたちを実力でたたきだす元ギャングスターなのだ。年のせいでなまってしまった体力を嘆きながらも、あこぎなまねをする新興のギャングたちに対決するセリフもおなじみのものだ。――おれたちの時代にはこんな汚いマネはしなかった。カタギに迷惑かけちゃいけねえ……。

 主演は、パムの他に、フレッド・ウイリアムソン、ジム・ブラウン、ポール・ウインフィールド、そして黒いジャガーことリチャード・ラウンドツリー。すべてブラック・マッチョ時代の往年のアクション・スターである。東映映画でいえば、鶴田浩二、若山富三郎、菅原文太、高倉健、藤純子のオールスター・キャストの復活のようなもんだ。かれらが二十年ぶりに荒廃した故郷の街に帰ってくる、これが『ホットシティ』の物語なのだ。かれらマッチョマンたちは少し老けてしまったことを除けば、まったくかつてと変わりのないヒーローだ。ありえなかった時代の残像によって現代の混迷を撃つという空想性が、この物語の基底にはある。帰ってきたヒーローの居場所は真実そこにしかないだろう。老いたヒーローによるアクション場面が辛いのと同様に、この映画の自己言及的な構造は辛い。
 パム・グリアの役がここでは唯一光っている。元のギャングスターのオリジナル・メンバーだが、遠いむかし恋人はどこかに去っていき、残された一人息子を新興ギャングに殺されてしまう。復讐戦の強い動機は彼女ひとりのものだ。強い母としてあると同時に、再結成された同志たちのなかでは「弱い女」(あの時代の風潮そのままに)として扱われる。事実、再会した恋人の冷たさをなじるときの彼女はもろに「弱さ」をまとわされている。強さと弱さを両面に備えたパムの役柄は、帰ってきたマッチョ・オジサンというどこか牧歌的なお話の身勝手さを一点で救っている。『ホットシティ』こそ、商売人がいい気なオダをあげているだけのクイーンの復活などまやかしだと告げている、真の復活をメッセージした作品なのである。
 さいごに、別面から、「帰ってきたヒーローたち」が現代の荒廃を成敗するという『ホットシティ』の脳天気なドラマ構造を考えておきたい。かつてのアクション・スターたちが物語で体現する「オリジナル・ギャングスター」とは、いったい何者なのかという問題だ。原型としてのやくざ映画を考えれば、かれらの存在は抽象的な正義にすぎない。大衆的なヒーロー像とでもしておけば間違いない。しかしアメリカの都市黒人において、二十数年前に在ったマッチョ・ヒーローの像は絶対に抽象に帰すことのできない存在だろう。かれらは過去からの亡者ではない。現実の歴史につながるということだ。現実の歴史につながって、かれらが「自衛のためのブラック・パンサー党」と呼ばれていた集団を呼び戻しているのだと理解することは、それほど困難ではない。ブラック・コミュニティを自衛し、子供たちを麻薬から守り、女たちを暴力から守り、男たちにブラックマンの尊厳を与える集団――アメリカ社会がもはや永遠に失ってしまった理想だと思える。こうした理不尽な夢をブラック・シネマの多くが内包していることを否定する者はだれもいないと思える。マリオ・ヴァン・ピーブルズの『パンサー』は生真面目だが、息の詰まる映画だ。たぶんそうした理不尽な夢のありかについて想像力を持たずには、アフリカン・アメリカンの創造について、映画であれ、音楽であれ、人は何も語るべきではないだろう。
 いうまでもなくこの数十年にわたるアフリカ系アメリカ人の歴史の総体を一望に見渡すことはにわかには可能ではないし、刻みつけられてきた墓碑銘と希望とをきれいに図示することも難しい。タランティーノふうの離れ業、つまりポストモダニストの常套手段である「つまみぐい」(ディコンストラクション )は、商業的にはびこるばかりでなく創造的にも正当の護符をも与えられるようだ。





























 都市・マイノリティ・犯罪の三本のみちすじは、これらの実体的な商業性とまやかしの創造性によって、ますます不分明なものになるだろうか。いや、あえて注目するまでもなく、これ以上には考えられないほど歴史は不分明にぼやかされ騙られている、というべきだ。しかし塵芥のなかにも必ず、逆に歴史の電撃的な射照を明らかにする或る暴力的な証しのかけらが、どんなところにあっても必ず、必ずや埋められているはずなのである。
 それに言葉を捧げねばならない。

『聚珍版』1999夏
2015-02-11 08:45   2015-02-12 19:55

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