映画とは別の仕方で、あるいは映画を観ることの彼方に
ドゥシャン・マカヴェイエフ論1
いずれにせよ映画は始まらなければいけない。それは何であろうと当り前のことだ。始まりがなければ――。女が出てくる。いきなり叫び出す。唱っているようでもある。字幕を読むと、
《山の上に黒いものが牛のクソかわたしの恋人か》
とか書いてある。
ともかくこうして映画は始まる。
始まるのだが、時は一九八四年。ミス・コンテストが聞かれる。
スポンサーは貞操帯協会、処女膜の美を競うヴァージンのコンテストである。ジョージ・オーウェル以上の〈性‐政治〉のディストピアのイメージなのか。
性は政治であり、政治は性であるとすれば、あまりに専制的なスタートラインだ。
ミス・コンゴはバナナの腰巻きを脱いで、素ッ裸になり……。と、こんな調子でコンテストは進行し、産婦人科の診察台そのままに鑑定と採点が続く。
いきなり、このように映画は始まってくる。牛のクソのように、恋人のように。この驚天と当惑は全編を通じて変わらない。
ミスコンの優勝者ミスワールド84は、賞金として貞操帯協会会長の息子を獲得する。百万長者の嫁選びコンテストというわけなのだった。ミスター・ドルとの初夜は、かれの金粉を塗ったペニスによって破られようとする。花嫁の悲鳴に、金色の筒先からほとばしる小便がふりそそぐ。これはミスワールド84がくりひろげるセックス・オデッセイアのほんの第一歩だった。
映画はそこから一転して、全く関連のないもう一つの航海の物語を、これまた唐突に開始してくる。ヨーロッパの運河を渡るサバイバル号が現れる。力-ル・マルクスの顔を舳先につけた奇妙な小船。アンナ船長は革命家であると同時に同志殺しの殺戮者だ。
ヨーロッパーマルクス主義の黄昏そのままに、オランダの運河を流れていくサバイバル号。
始まりから最後まで、分裂したまま分裂をくりかえし、映画は進行する。二つのオデッセイアは、二つながらに酷薄でしかし徹底的に猥雑に描かれるのだった。
ドゥシャン・マカヴェイエフ『スウィート・ムービー』。
そしていずれにせよ映画は終わらなければならない。
終わったときその暗闇からしばらく立ち上がることができなかった。
曰く、トロツキイは日本人には強すぎる、でもいい。日く、ドストエフスキイは日本人には強すぎる、でもいい。マカヴェイエフは強すぎる。
とにかく今、観とどけたものは、わたしには強すぎる「闇」だった。闇とは仮りに映画という形成をとった何かだ。闇は映画の中にもあり、映画の進行と並行している。映画が終わっても、暗闇から離れることができない。
強すぎる映画だった。ブニュエル以外にこれほど強烈な衝撃はなかった。革命も反革命も、それら一切の振幅があまりに痛烈で、軟弱な感性をぶちのめしてきた。この強すぎるものに直面して立ち上がることができなかった。
革命も反革命も直裁に強すぎる。それらがそのまま無雑作に投げ出されていた。その強烈さ、その振幅のあまりの極端さに打ちのめされてしまったのだ。やはりどこまでも日本人だ。この程度の刺激に耐ええない日本人なのだ。と、つくづく思い屈した。
一九八九年冬は、わたしにとって、ドゥシャン・マカヴェイエフの三作、『WR オルガニズムの神秘』『スウィート・ムービー』『モンテネグロ』を観た時期としてのみ記憶されるだろう。、とりわけ『スウィート・ムービー』は、苦い、しかし豊かな、重苦しい衝撃を与えてきて、しばらく映画館の闇から立ち上がることができなかった。
六八年の革命を「性と政治」から圧倒的に総括するフィルム。あの時代の錯乱と解放と迷蒙を未来の希望に向かって投げ出した映画。
舳先にマルクスの巨大な顔を彫り付けたサバイバル号の女船長。彼女は性の誘惑者であり残忍な処刑人だ。戦艦ポチョムキンから来た水兵と交わり、共に革命歌を唱い、最後には砂糖のヘッドの上で刺殺する。
訪れた子供たちをも、お菓子と自分の裸体で誘惑し、次々と殺し、ビニール袋につめてしまう。
一方、もう一人のヒロイン、ミス・ワールドは成金の金粉を塗ったペニスに襲われることから始まる性の受難を漂流する。
受難の完成は、銀河コミューンの食と性と排泄の一大パーティに巻きこまれることだった。オットー・ミュールとかれの一党によるマテリアル・ハプニングもまた「あの時代」の神話の一つだったが、かれらがここに復活してくるのだ。食物や大小便やペンキや動物の血を全身に浴びるパフォーマンスが予定されていたのかもしれない。
幸いにして、ミス・ワールドは『スウィート・ムービー』のタイトルそのまま、チョコレートを全身にかぶってみせてくれた。そして挿入されるカチンの森の虐殺のフィルム――ソ連兵によって殺されたポーランド人をナチスドイツが発掘し記録に残した。
性と暴力、革命と同志討ちは、一つの映画の中でこの上なく高まった。軟弱な感性には耐ええない震憾だった。
ドゥシャン・マカヴェイエフはユーゴスラヴィア王国――(当時)今では、新ユーゴスラヴィア連邦共和国――それとも単独に「セルビア共和国」といったほうがいいのか――のベオグラードで生まれた。国王アレキサンダーの暗殺に先立つこと二年――。
初めてわたしがマカヴェイエフ映画に接したとき、かれの祖国は「東欧革命」の激動の中にあったのである。
しかし「旧ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」の解体状況は、一人の作家の想像力をはるかに超えてしまったと思える。だからマカヴェイエフ論を用意しても、現在のユーゴ状況に対応させることはほとんど困難である。単純にかれを、祖国を追われた亡命作家と位置付けることも、正確さに欠けるだろう。
「革命」は周知のように、ペレストロイカから社会主義崩壊へと進んだ。「諸民族の牢獄」としての社会主義帝国からの解放はなされた。しかしその必然的な帰結として「バルカン化」という特有の現象が現在のものである。果たして歴史の歯車は、再び逆向きに戻ってしまったのだろうか。
芦田均は名著『バルカン』を「呪われたバルカン」の一章から書き始めている。
《バルカン半島と欧州との間には、何一つ自然の境界がない。欧州の境界ばかりでなく、アジアとの区画は、文字通り一衣帯水のダーダネルスとボスポルス海峡であって、試みにスタンブール九丘の上に立って「おゝ」と呼べば、対岸のアジアは「おゝ」と答えん許りの距離に在る。
それ故に北から来る欧州人種も、東南からするアジア人も、何の苦労もなくバルカンに入ることができた。バルカンの住民は、強力な侵入者の意のままに、或いは押され、或いは引き倒されて、その度毎に被征服民族の苦労を嘗めて来たのである。
一言にして云えばバルカン半島は文化も宗教も人種も、区々様々の寄木細工であってラテン・チュートン系あり、ビザンチン・グレコ・スラーヴの影響もあり、そして中央アジアから来た韃靼の痕跡をもトルコ人を通じて明瞭に留めている》
因みに、この本は第二次世界大戦の始まった年に書かれた。
バルカンは、歴史の用済みになったノオトから再び蘇生した呪われた言葉のようだ。諸民族の四分五裂は、第一次世界大戦以前の情勢を、じっさいに語るかのようだ。
とりわけ旧ソヴィエト連邦と、スターリニズム衛星国家のうち最も中心から相対的に自主路線をとりえていた旧ユーゴスラヴィアとにおいて、こうした現在であるとは、何という歴史の皮肉なのだろうか。
旧ユーゴスラヴィアは六つの共和国と二つの自治州から成り立っていたといわれる。面積は日本よりも狭い。本州と九州を加えたより少し広いという程度だ。地勢はほとんど高原山地であり、中心点をもちえない。「民族の十字路」といわれるバルカンでもとりわけ典型的な複雑な構成がここににあった。
七つの国境、六つの共和国、五つの主要民族、四つの言語、三つの宗教――セルビア正教、カトリック、イスラム教。モザイク国家といわれた所以である。
オスマン帝国の占領の跡はいまだに残り、文化的にも宗教的にも、東西の交易地としての独自の遺跡をもつ。
歴史は骨肉の民族憎悪を、この狭い「国家」に封じ込めてきた。統一国家としての出
立は一九一八年、セルビア・クロアチア・スロヴェニア王国の成立に始まる。
立は一九一八年、セルビア・クロアチア・スロヴェニア王国の成立に始まる。
《ユーゴスラヴィアは、建国以来二十年の歳月を閲して、今なお一民族国家と考えることは、事実を無視する謗りを免れない》――芦田、前掲書。
統一国家を可能にした動因はナチスドイツによる外圧だった。ファシストに抵抗するパルチザン愛国主義が初めてユーゴスラヴィアを実体化したのである。そして戦線は勝利を収め、以来、社会主義連邦の理想が構築する未来が信じられようとしたのである。
自主管理コミュニズム、非同盟中立路線は、この東欧の後進国を近代化したことだろう。しかし「諸民族の栄光」は、この地では実現されないのか。バルカンの呪われた混迷そのままがこの地の歴史に戻ってきている。これをパルチザン国家の黄昏という世界史的動向の局面で了解することは、あまりにアカデミックすぎるように思える。
大セルビア主義の標榜が連邦の分裂を加速させたのか、どちらにしても解体は不可避だったのか、うまく整理することはできない。一体あの狭い領土で、大ロシア主義のミニマム版なのか。
現在は、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニアの各共和国が連邦を離脱、独立した。残りのセルビア、モンテネグロ両共和国に、ヴォイヴォディナ、コソヴォ両自治州が、新ユーゴスラヴィア連邦を名乗っている。
五共和国の状態。酷薄な内戦と調停のニュースが断片的に伝えられてくる。よほど予備知識を備えていなければ、事態を把握することはむずかしい。それにこの状態が、解体の最終局面とはどうしても想えないところがある。
各共和国はそれぞれ同名の一民族と対応した民族国家だが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは例外であり、もともと準共和国のような不安定状態にある。イスラム教徒が半数近いが、ムスリム共和国ではない。
それにコソヴォ自治州のアルバ二ア人問題がある。アルバ二ア人はユーゴでは少数民族に分類されているが、じっさいは、マケドニア人、モンテネグロ人よりも人口は多い。更に人口増加率が他民族に較べてかなり多いのだ。
アルバニア人の暴動は、最高指導著チトーの死後、ほどなくして起こった。アルバ二ア人の要求はコソヴォの共和国化に帰結する。だがそれが実現すると、コソヴォ自治州は、隣国アルバニアに併合される結果になるだけなのだ。七つの国境という要素がここで注面されてくることになる。
こうした意味で、セルビアに生をうけたマカヴェイエフがユーゴスラヴィアを代表する映像作家とは、いいがたいだろう。といって故国を喪った作家として扱うのも正確ではないような気がする。
むしろ祖国を追われた男にとって、そんな現況はいちいち知ったことではない、ということではなかろうか。少なくともこうした激動の苦しみを主要にメッセージする役を受けもつには、かれは適任とはいえないようだ。
正直いって、かれがどこに属するのか、いい当てるのは不可能だ。ヨーロッパの作家には、時々、そういう化け物みたいなのが出現してくる例がある。しかしマカヴェイエフ映画の狂騒を、今日のバルカンの混迷とは無関係なものとしてしりぞけることは、およそ場違いな観賞なのではなかろうか。
一九九一年、マカヴェイエフ全作品シネマテークが敢行された。東京・渋谷。四月から九月まで、レイトショウの形で上映された。
それへのあいさつ『暗闇の中の観客――映画の子供たちへ……』で、かれはいっている。
《真っ暗な劇場の中で、観客であるわたしたちはスクリーン上に映し出されるもの以外に対し、じつは盲目状態にあります。けれどあえていわせてもらえるなら、そこでわたしたちが視覚的に見るものはさして重要ではなく、映画体験とは観客のもつ盲目的かつ潜在的な感覚に呼びかけるもので、わたしたちは映画を通じて美の背後に息をひそめる犯罪的なもの、あるいは恐怖の向こうに介在する美的なものを見るのです。更に明白なものがもつ虚構性、権力の脆さ、逆に不条理なもの、偶発的なものに備わる優れた何か、を映画を通じて垣間見ることもできる。かつて映画とは一秒間に二四コマを映す、単なる影にすぎないといわれてきました。
しかしこれは事実ではなく、一秒間に二四回、フレームが次から次へと移動する間、わたしたち観客は完全な暗闇の中に存在し――じっさいに映画を見ている時間のうち、約半分はこの状態だ――、そしてこの完全な暗闇の中に映画は進行していく。単なる影といわれているものの、それはいったん作り上げられると不滅なものとなり、力強いものへと変貌する。なぜならその影が生命力を表現し、なおかつそれをわれわれの前に提示するからで、けれどもまた逆にその生命自身、野を舞う蝶のようにはかないものであり何人たりともこれを保持し続けることはできない……》
たぶんこの文章が衝撃的であるのは、映画を観るという行為がいかにあてにならない気ままな選択であるかの一点に、つくり手が注目をうながしていることだろう。
あなたはソレを観るのであって、また観るのでないのだ。作家の言葉付きの難解さはその両義性の一点にかかっている。
あなたは映画館に坐り、ソレを観ることもできるし、また観ないこともできる、と。映画の半分は闇なのだから、と他ならぬつくり手がいっているのだ。
そしてこれは観るという行為の本質に関わっている。だから観ることを繰り返しても問題は同じことだ。ヴィデオで観て、早回し・巻戻し・コマ落しと、映像を分解しながら観る作業を通しても全く本質は変わらない。
やはり、あなたは観るのであって、また観るのでないのだ。なぜなら、たんに不注意で或るショットの重要性を見逃してしまったとか、そういうことを作家は対象化していっているのではないからだ。
マカヴェイエフが語っていることは、映画の闇の向こうにあるものについて、映画を観ることの彼方に観客がみつけるべきものについて、なのだ。つまりこれは、自分の映画が「映画とは別の仕方で」つくられたものであるから、別の仕方で観られるべきものだ、と不遜に語っているつくり手の言葉なのだ。
これは映画でありそして映画ではない、というわけだ。
ところで作家の自己宣伝を、とくに映画作家という途方もなく誇大妄想なタイプの自己PRをそのまま、真に受けることもあるまい、といわれればそれはその通りだろう。だがこれは他ならぬあの『スウィート・ムービー』の作家の言葉なのだ。わたしにはそれで充分なのだ。
映画を観ることの彼方にあり、映画を語ることの彼方に真にその映画に対決すべき言葉がみつけられる、そうした映画が数少なくわたしの生の途上にはあるはずだ。それに出会うことは、べつだん困難なことではない。それが『スウィート・ムービー』の衝撃だった。かれの言葉ならば、何はともあれ信じるに足ると想われた。
フィルモグラフィを示す。
(短編ドキュメンタリー)
1953年 ヤタガン・マラ
1955年 シール
1957年 アントニイエフの壊れた鏡
1958年 記念碑を信仰するな
蜂飼いのスクラップブック
呪われた休日
色は夢見る
1959年 労働評議会とは何か?
1961年 お芋が一つ、お芋が二つ
教育的童話
スマイル61
1962年 パレード
フェンスの下で
ミスー・ユーゴ62
ABCについての映画
1964年 新種のおもちゃ
新種の家畜
(長編)
1965年 人間は鳥ではない
1967年 愛の調書、又は電話交換手失踪事件
1968年 保護なき純潔
1971年 WR オルガニズムの神秘
1974年 スウィート・ムービー
1981年 モンテネグロ
1985年 コカコーラ・キッド
1988年 マニフェスト
1993年 ゴリラは真昼、入浴す
1994年 A Hole in the Soul (ドキュメンタリ)
つづく
2015-02-02 19:27 2015-02-03 07:05 2015-02-04 12:51
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